仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)・なぜなに特集
芸術(げいじゅつ)の秋です!
せっかくですから、今月は「芸術」としての「仏教文化」にふれてみましょう!
日本に仏教が伝わったのは、今から約1500年前の538年。
その後、仏教は、単に信仰(しんこう)だけでなく、時代背景(はいけい)とともにさまざまな影響(えいきょう)を与えることとなります。芸術の分野(ぶんや)においては、その影響が特に強く反映(はんえい)したと言えるでしょう。
仏教美術と聞いて、みんなは、何を思い浮(う)かべますか?
仏教美術ってなぁに?
仏教に関連があって、人間の視覚(しかく)に直接、働(はたら)きかける芸術を仏教芸術、仏教美術と言います。
仏教芸術、仏教美術には「仏像(ぶつぞう)・仏画(ぶつが)」、「寺院建築(じいんけんちく)」など色々なものがあります。
仏教の教えは、はじめのうち、口伝(くでん…口で伝えること)で行われていました。しかし、むずかしい仏教の教えを学んだり、広めたりするために像や絵、建築などで表現するようになり、芸術として発展していったのです。
仏像と仏画
飛鳥・奈良時代
仏教が日本に伝えられるとともに寺院が建てられ、お釈迦(しゃか)様の姿(すがた)や仏教の書物に登場する仏様の姿を表した像がまつられるようになりました。絵画においては、お釈迦様の伝記を描いた絵巻物などが登場します。
飛鳥・奈良時代は、国に仏教を広く伝えることを目的に、海外の技術者が中心となり、たくさんの仏像などが作られていきましたので、その作風(さくふう)は、大陸文化の影響が大きいものでした。
平安時代
平安時代になると貴族(きぞく)文化とともに日本独自(どくじ)のやわらかく繊細(せんさい)な文化が栄え始めます。空海(くうかい)によってもたらされた密教(みっきょう)や平安末期に流行(りゅうこう)した阿弥陀(あみだ)信仰などがきっかけとなり、技法(ぎほう)・画題(がだい)などの点でも仏像・仏画のバリエーションが広がっていきます。
この時期、密教のもとでは「曼荼羅(まんだら)」、浄土(じょうど)信仰のもとでは「来迎図(らいごうず)」という仏画が流行しました。
◆曼荼羅・・・密教における仏の世界を表現した絵画 >曼荼羅について
◆来迎図・・・人々が亡くなった時に阿弥陀如来がむかえにくるという浄土信仰の考えを表現した絵画
鎌倉時代
鎌倉時代は、貴族社会から武家(ぶけ)社会に変化した時代です。
この時代の変化とともに仏像の世界では、やわらかな表現法から武家らしい、たくましさを表現するような力強い仏像が多く作られるようになりました。鎌倉時代において仏像彫刻(ちょうこく)の技法は、完成系となります。
絵画の世界では、現実を追求(ついきゅう)し、ありのままの姿が描かれるようになり、「似絵(にせえ)」と呼ばれる肖像画(しょうぞうが)が生み出され、仏画においても教えを開いた開祖(かいそ)の肖像画が描かれるようになります。
室町時代~江戸時代
室町時代に入ると将軍家の庇護(ひご)を受けて、鎌倉時代に中国から伝来した禅(ぜん)宗が栄えます。禅宗で用いられた高僧(こうそう)の肖像である頂相(ちんぞう)や禅の教えを表現した「墨(すみ)」一色で描かれる水墨画(すいぼくが)が登場します。
また、江戸時代の終わりまで活躍(かつやく)した狩野(かのう)派などの絵師(えし)の登場により、襖(ふすま)・壁(かべ)・障子(しょうじ)に描かれる絵画が発展していきました。
仏教建築物
寺院の建築様式もまた、飛鳥時代に仏教とともに伝わりました。それらは次第に日本風にアレンジされてゆき、日本建築の基礎が確立していきます。
僧侶(そうりょ)が集まって修行する場所を伽藍(がらん)といい、日本で最初の本格的伽藍は、飛鳥寺(あすかでら)、別名法興寺(ほうこうじ) と伝えられています。
伽藍には、一般の人々が生活する場所との境界(きょうかい)をしめす山門(さんもん)、本尊(ほんぞん)をまつる本堂(ほんどう)、学習を行うための講堂(こうどう)、僧侶の住居である庫裏(くり)、僧侶が食事をする食堂(じきどう)、時を告(つ)げる鐘楼(しょうろう)などがあり、名称(めいしょう)、配置(はいち)などは、時代や宗派(しゅうは)によって違いがあります。
平安時代
密教が伝わり、山に寺院が建てられるようになると、これら山岳(さんがく)寺院では、奈良時代にみられたような伽藍配置ではなく、独自の配置が生み出されるようになりました。また、貴族社会の阿弥陀信仰により、極楽(ごくらく)浄土を表現した庭園・池などを中心とした華麗(かれい)な寺院も数多く造営(ぞうえい)されました。
鎌倉時代
大仏様(だいぶつよう)・禅宗様(ぜんしゅうよう)といった建築様式が姿をあらわします。
大仏様は、平氏(へいし)によって焼け落ちてしまった東大寺の再建(さいけん)で使われた様式で、中国の宋(そう)様式に日本の和様(わよう)を取り入れたものです。
禅宗様は、禅宗とともに伝えられた様式で、和様建築よりも耐震性(たいしんせい)にすぐれ、より装飾性(そうしょくせい)が高いもので、のちに寺院建築の主流(しゅりゅう)となり、禅宗以外の寺院建築にも用いられるようになりました。
武家の世においては、華(はな)やかさよりも実用性が重んじられたため、書院造(しょいんづくり)のもととなるような質朴(しつぼく)な建築が好まれました。
室町時代以降
金閣(きんかく)・銀閣(ぎんかく)のような楼閣(ろうかく)建築が登場します。室町時代以降は、これまでの和様・禅宗様の建築様式をうまく取り入れ、日本独特の建築様式として発展していきました。
指定文化財ってなぁに?
文化財の種類には、有形(ゆうけい)文化財、無形(むけい)文化財、民俗文化財、記念物、文化的景観(けいかん)、伝統(でんとう)的建造物群(けんぞうぶつぐん)の6種類があります。この中でも特に重要なものであるとされる文化財は、文化財保護(ほご)法に基づいて国や市町村などで指定をうけ、保護されています。これら重要文化財の中でも特に世界文化の見地(けんち)からみて芸術的、学術的に価値が高いもの、歴史の上でかけがえのないものが、国宝(こくほう)として指定されます。
日本で初めて“国宝”という語が登場するのは、1897年(明治30年)、古社寺保存法が制定(せいてい)されたときで、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂(ほうりゅうじこんどう)と岩手県平泉の中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)が日本で最初の国宝に指定されました。その後、1929年(昭和4年)には古社寺保存法に代わって国宝保存法が制定され、さらに1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定され、現在にいたっています。
大切に残していきたい文化財、みんなが住んでいる町にはどんな文化財がありますか?
金剛院では、赤門(あかもん)として地域の人々に親しまれている山門が、豊島区の有形文化財に指定されています。
詳しくは、ホームページの山門・寺宝のページをみてね。